2025年 03月 07日
「白馬岳へ」(24) 45~46ページ目 下山と下山後

※45ページ目
しつかり身の重みを託して足場のない石くれの道をすべつたりして,危険ととたゝかひつゝ,やっと、お花畑のところまで、下りることが出来た。下る時は全く一瞬である。
そして一番難所と予想されてゐた小雪渓にさしかかつた時、それが予期に反して少しの風もなく、安心してこゝを横断することの出来たのは、先ず何よりの幸福ではあつたが、こうなると、少し位、風が吹けば面白いのになあと、下らない慾が出る。私と古川は、案内人たちを後にして、相変わらずズッと先頭にたつて、小雪渓をわたつてしまつた。岩角のところで一行のわたるのを,まつ。時々雲がはれて、最早や白馬尻あたりまで見おろせるやうになつた。平井さんは、こゝで身代わりに、かりものゝの金剛杖を落としてしまつた。杖はカランゝゝゝと,またゝたくまに六十度の急傾斜の底に見えなくなつた。そのため平井さんは、とうゝゝ四つ這いで,あわれや,雪渓をわたつたのである。
唯一の難所、小雪渓をすぐれば (過ぎれば)、こゝは葱平である。例によつて、石ころの急傾斜。とんゝゝ ゝゝ と足の調子がスツカリ狂つて,走りだすと,もう,とゞまることが出来ない。おちやうが、ころげやうが、走つてゐる間は,無我無中 (無我夢中の間違い) である。無我無中で走つてゐた瞬間、そうれ見ろ!! だ。私は大きなツルゝゝした岩の頭をふんで,そこから下の石ころ路へすべりおちて、ドシンと尻もちついた。目白できいた尻モチ先生の面白い話を,今の様な,必死の場合に,思ひ出すのは,余りに皮肉だが ---- 少し右手の皮が破れて、血が,流れる ----- こゝを下りてしまうと大雪渓である。再びカンジキをつけて、一行をまつ。こゝは第二の難所 ---- 両側から石が飛ぶので、案内人の注意通り,路を雪渓の中央にとつて、一歩ゝゝ足をおろす。こゝでは,もう風もない。たゞ雲が、行手をさへぎるばかりである。馬尻をへだてゝ向ふのひくい山には、日さへ照つてゐる。もう大丈夫である。こゝで一行大いに元気づく。
足に調子を付けて,ピョンゝゝゝと兔のはねるやうにして下ると,またゝく間に先の人をおひこす。高橋君は,カンジキなしで、ここをたつた三十分でおりるといふ。一行呆然たらざるを得ない。いくら山の人とはいへ、見事なものである。高橋君がそのすべり方の要領をやつてみせつゝ、もう,雪渓の下に小さくなつてしまつた。
しかし前に云った兔式の下り方は絶対にいけない。それをやつたから私は、両足の親指のツメを二本ともスッカリ駄目にしてしまつたのである。やはり慎重にゆつくりと下りた方がいゝ。ところで、ゴザを尻にしいて,こゝをすべるのは,また一興ありだ。雪渓は波状凹凸をなしてゐるので、すべる時,尻は,いたいが、我慢してやれば、急角度のところ等は、なかゝゝよくすべつて面白い。
いよゝゝ馬尻につく。雲の襲来もなくなつたので、こゝからメガネをかけることにする。こゝで名残の雪を食つてゐるところを寫す。(44ページに写真あり)
こゝから二股までは、ごく平凡な、山路。雪もなにもない。その代り、昨日の大雨で到るところ,水があふれ、大体,昨日そんなところを通つて来たのかなあと不思議がられる位、路すがたは変わつてゐる。まるで小さい川を渡渉するやうなものである。谷本さんは,新らしい登山靴をはいてゐるので、水をわたるたびに、愚痴をこぼす。そこへ行くと我々のは二円六十銭の安物だから、どんな所へ足をつき入れやうが一向かまわないのである。
丸木橋をかけてある瀧のやうな流れに出遭った。昨日はヂヤブゝゝゝはいつてわたった所である。私はまつ先に,前渡り* をすまして、岩の上から一行のわたり方を研究する。
森田さんは、悠々と上手に渡った、エライ!! 谷本さんは、はじめから、危なかった。まん中までくると、一層,顔の色と足の運び方が変てこになった。平井さんはと見ると、谷本さん以上である。今は到底自信もなくなったとみえて、橋の下の大きな岩から岩へと、激流に足をうばはれさうにして、這いまわつてゐる ----- 二人とも無事わたるには渡つたが、私はこの場合、むしろ,平井さんの橋渡らずの勇気を讃美** したい。
ニワトリの居る猿倉小屋では、あのうまいアルプス力餅に舌づゝみ*** 打つて晝 (昼) 食の代りとした。
* 前渡り=「前」の崩し字で「前渡り」だろうか。調べてみると「前を通り過ぎること」とある。
** 崩し字が読めない。「讃美」だろうか。
*** 舌づゝみ= 舌つづみ (したつづみ) の間違い。大正期にもこの間違いがあったとは。

※45ページ目

かくして午後四時半、一行無事、四ツ谷高山館へ帰着。所要時間 ーー 五時間半*。登りの十時間に比しその半分である。
かへりみすれば白馬はやはり雨雲の中に,その神秘な頂をひめ、嵐だか、凪ぎだかわからぬ永遠の荘厳さでそびえてゐるのである。
今朝までは嵐と寒さにふるへてゐた,体に,今はもう,汗を湧かせる程の暑さ。登る時は,珍らしくも、ほしくもなかつた大雪渓の雪も、この炎熱の下ではさすがになつかしい。
平井さんが,借りものゝ杖を小雪渓でおとしてしまつたので、又、新しいのを求め、白馬頂上の焼印をおし、わざと泥の中に突こんで古いさびを出さうと、技巧をこらしてゐる。ーー 宿屋で食べた白馬まんぢうの味 ーー よくきかされた,女中の『まことに申しわけありましねえが』にいよゝゝ別れをつげて、四ツ谷出発、帰途につく。
昨夜の雨はよつぽど、ひどかつたとみえて、四ツ谷では橋が落ちたりしてゐて、私達はそこまでムダな徒歩と時間を費して、大町行の自働車** にのつた。
自動車の揺れに、足の爪がひどく痛む。
午後七時、辛うじて大町発の軽鉄*** に間に合ふ。九時すぎ、松本駅着 ーー 東京廻りの切符まで買つてゐたけれど、今一時間ばかり前に,中央線全通との報に接したため、こゝで午後十時,東京帰りの佐太郎さんと別れ、午前0時一分発の列車で松本発、中央線をとつたのである。
一郎へは「汽車変更,アス朝よられぬ」といふ、うらめしき、取消の電報を松本から打つ。
うまかった松本、ベンテン樓のヒヤシソバ。
二十五日朝九時、名古屋のりかへ ------ 夕方五時十分、一行大元気にて大阪駅着 ーー この夜大阪は天神祭で大賑はひ。白馬から古川がもつて帰つた雪は、マホービンの底にまだとけずに、サクゝゝと音をたてゝゐる。
二十七日朝から、山で一日おくれた吉田さんは出勤した。来てすぐ洗面所の黒板に貼出したスリッパ捜索の広告が振つてゐる**** ------------------------- 全く、さがしてやりたいやうな気の毒を,感ずる。
「私のスリッパをおかへし下さい 幸にして死なずに帰りましたから,死ぬものと思つて私のをお使ひになつたのならチト気が早い 吉田 七月二十七日」
*「間」に見たことのない強い崩し字を使っているが、その後の「十時間」の「間」はよく見る崩し字だ。
**「自働車」の「どう」が「働」になっているが、そのすぐ後の「自動車」は「動」を使っている。
***「軽鉄」とは簡易な規格、軽量なレールを使用した「軽便鉄道」の略だろう。
****「(広告が) 振つてゐる」では意味が通らないような気がするが「振」ではないのだろうか。


大雪渓でいためた両足のツメを、毎日ゝゝ、椅子の上に眺め、感慨を深うする --- たいち ---
きつの画伯より
この最後の絵も印象に残っていたもの。
「きつの」さんというのは初めて出てくる名前ですが、同僚なのでしょう。
これで山行記録は終わりました。この後 押し花やスケッチのページが多くありますが、その前に新聞記事、新聞の写真、あるいは同行した写真班が撮ったと思しき写真が5ページ分あります。興味深いのは、旅費、旅程、所持品などがまとめてあること。次回それを掲載する予定です。
#
by fujiwarataichi
| 2025-03-07 14:37
|
Comments(0)
2025年 02月 12日
「白馬岳へ」(23) 43~44ページ目 夜の様子と嵐の中の下山
昨年末から仕事が忙しくなり、書こうゝゝゝ (祖父風) と思いながら約3か月。今回 祝日を利用し 作成を進めることができました。気が付けば山行記録自体はあと4ページ。2回分です。そのあとまだまだページはあるのですが、補遺的な記事が5ページ分あり、その後 植物の押し花とスケッチが続きます。押し花とスケッチは少しだけの紹介のみにする予定ですので、終わりが見えてきました。頑張ります。




※43ページ目

絵には 四ツ谷高田館より 白馬連峯 とあり

右上の写真のアップ 杓子の大澤にて 岩上に立てるが太一
七月二十四日未明 ------
ふと目をさます。山は大嵐だ。一しきりゝゝゝ* 屋根をふきまくってゆく突風の荒息。一時にあびせかける雨と風。それをきいてゐると、昨日,大雪渓の雷以上のものすごさがある。ばかに心細くなってしまふ。
こうなると、みんな、ねてゐられるものではない。
暗い部屋にこもる不安な嵐の話、いやにじめゞゝした殺気に充ちた空気。雨が頭の上にもる不快さ -----
こうして登山の最大期待であった山頂の日の出を目茶ゝゝ** にした大暴風雨は、ますゝゝ荒れに荒れて、一行を、いよゝゝ不安と寂寥のドン底に、おとしこんでしまうのであった。
だれかが小便に出る。戸の隙間から勢ひよく吹き入ってくる雨まじりの風に、タキ火の灰が,パッと散る。雲の往来がものすごく,見える。
けれども、寝ながら唄ふ、独特のハナウタや流行歌や、若い学生の吹くハーモニカ等をきいてゐると、外は,大嵐だけど,皆はあまりそれを、恐れてゐるやうにも見えなかった。却って、クソ落ちつきに、おちついた*** のかも知れぬ。
そして、嵐のまゝに山頂の夜は、明けはなされた。一同すぐ席に、輪を造って、昨夜の要領で朝食がはじめられた。飯は昨夜のより幾分たき方がいゝ。
これもまづすんだが、その後は又、はてしなきタイクツさ (44ページに続く)
* 「ひとしきりひとしきり」という言い方があったのだろうか
**「目茶目茶 (めちゃめちゃ)」という言い方がこの時代からあったとは驚いた。てっきり「めちゃくちゃ」の近年の誤用だと思い込んでいた
*** 落ち着いたことを強調して「クソ落ち着きに落ち着いた」というのもスゴイ表現だ
※44ページ目

上 左の小さな写真 白馬尻より 東浅間方面をのぞむ

上 右の写真のアップ 右より三人目、雪塊を口にしてゐるのが太一
雪の見おさめ、食ひおさめ、七月二十四日下山の日、午前一時、白馬尻にて
この写真なども 祖父は私の弟に似ています。遠目だからでしょうが。
(43ページからの続き) である。私はわづかのあかりをたよりに寫生をはじめる。
佐太郎さんは高山病らしい。昨日登る時から、ヘンテコな調子であったが、今朝もごはんがすむとすぐにしょげて力なく、寝てしまふ。
一向* ここに、佐太郎さんのトランプで勝敗をたゝかはす。吉田さんの油捨箱** の上に、やはり吉田さんがもって来た用意のローソクをともし、みんな毛布をかぶって、輪になった。そして私にとっては、余り面白くないトランプは、丁度、吉田さんのローソク二本をともしきって,しまうまでつゞゐてゐた。向う側の学生の一隊も盛んにやってゐる。
中に頓狂 (とんきょう) な強力 (ごうりき) は到頭 (とうとう),手拭をかぶり、自らブロークンな声*** を絞って信濃の盆踊りといふのをやってみせるのであった。ローカルカラー。すてがたき趣があり、むしろ悲哀である。けれども何といふ,急転直下の転変であらう!! 昨日まですべての強力が保証してくれた程の天気であったのに。
ついに午前十時といふ時が来た。
わたしはこの時、皆に暴風をついてこれからすぐ下山決行を,はかった。
第一,重大な店務 (寫眞のこと) を帯びての登山である。天候恢復 (かいふく) をまってゐた日には、新聞社に対する原稿がスッカリ駄目になってしまう。一行はたゞこの事を心配して、今日の下山を決行しやうといふのである。嵐のことだから、多少の危険はともなうかも知れぬが ---- といって気の進まぬ案内人を先頭にして、小屋を出たのが十一時。
例の四ツ谷の青年会長がお気をつけてと、身送り (“見送り” の間違いだろう) に出る。雲が流れて来てもう五間先**** とみえぬ。
山頂小屋から,これも下山を決行して、下ってくる他の一隊が、雲の中に,かげ絵のやうに動いている。
けれども吉田さんだけは、どうしても危険だからといふので下山を中止、もう一泊して風の静まるのをまつことゝなり、高橋君に明日のぼって貰ふやうに決定。一行揃って下りることが出来ないのは残念だけれど仕方がない。
吉田さんは,あの,たゞでさへ恐ろしい小雪渓を、横断する時、突風に,足をさらはれはせぬかといふ、その恐ろしさと、もう一つは,大雪渓を下りる時,例の両側の崖から石がとんでくるのを非常におそれて、こういふのであた (“あった” の間違いだろう)。勿論吾々も、たゞこれだけの心配である。
雨と風は、大きな底力のある息づかいで前からとなく、うしろからとなく、雲を起こして吹きまくる。一寸の間にもうビショ濡れである。
けれども用意して来たレインコートをきたので中身までは通ってゐない。ゴザがあふられ (あおられ?),帽子がたゝきつけられ、烈風に、かけてゐるメガネさへとんでしまふといふ有様なので、一行、近眼の人は、とうゝゝメガネをはづす。
又、かけてゐても、雲ですぐ,くもってい見えなくなるから,だめである。
寒さが身にしみる。昨日の路は雨に洗われ、水に流され、或ひは、小川となって路を防ぎ、或ひは,思はぬ所に、小さい瀧となって、行路の難をおぼえること甚しい。風に身を浮かせ乍らそれを飛び越へたり、金剛杖一本に (次ページに続く)
* 「一向 (いっこう)」= ひたすら **「油捨箱」だろうか?
***「ブロークンな声」というような、まるで今風の言い回しがあったとは意外。
**** 一間 約1.8メートルなので 五間は約9メートル。
これまで見開き2ページ単位で文章は一段落していましたが、最後で次のページに続く長文になっています。文章はやや荒っぽく、また小さな点 (,) が多く、3ヶ所訂正の黒塗りがあったり、また誤字や意味が分かりにくい箇所もあることから、最後もう一息 頑張ろうと、急いでいたのではないかと感じます。
それにしても、新聞社も関係する仕事としての登山であったというのはこれまでに書かれていなかったことで驚きました。その一方、カメラマンを雇っていること、会社 (仁丹) の旗を持ってきていることが納得できました。
小屋での様子も大変興味深いところです。現在の山小屋とは全く異なっており、明かりはなく、雨漏りがするなど粗末な小屋で、ご飯も質素。やることがなくて退屈極まりなく、嵐でも下山したいと考える気持ちはわかります。しかしひとりでももう一泊すると判断した吉田さんが正解でしょう。
山行 最後のページ、なんとか今月中にはと考えています。
#
by fujiwarataichi
| 2025-02-12 15:26
|
Comments(0)
2024年 11月 02日
「白馬岳へ」(22) 41~42ページ目 日没と就寝、翌日の下山

白雲美しくツルギのノーブルな姿に往来するさま。そのうしろに落ちて行く色あせた二十三日の落日のものさみしさ。
日がとっぷり暮れて、やっと北、西、南に連る長いゝゝ連続のスケッチが出来上がる。
私が東京でもらったキャラメルの一箱をたべてゐた案内人は、いつのまには、私の側からたち去ってゐた。あとに私は、寒い風にふるへてたつた一人 ----- ふと妙なおそろしさが胸をつく。私はあるきにくい石ころの路をころげるやうに小屋へゝゝゝと走った。とうゝゝ下駄を切ってしまった。くらくてもう見当がつかぬ。夕やみの中をすかしてみるが一向小屋のあり所がわからぬ。------ これも山特有の鬼気身に迫るといったやうな、おそろしさであった。
幾度もさつき谷本さんと登った尾根のあたりをハダシで引きかへしたり、とまつて考たり、進んだりしてやっと路をさがし、ランプの灯淡き小屋にたどりつく。もう誰一人としておきてゐるものはない。今、われ一人あかず眺め入つてきたあの雄大なパノラマを誰に語る由もなく、ギッシリつまつた古川寫眞班の横、わづかの隙間にわりこんでケットをかぶる。
クツ下をはいてゐない足から冷気がヒシゝゝと迫ってくる。
寒いのと身動きも出来ぬ苦しさに、いつまでもねむられない。------- かくて頂上二十三日の夜はくれてゆく ------------



*42ページ目


太一、大雪渓をすべるの図


帰途大雪渓に於ける一行
すべるとなかゝゝ面白いが雪の凹凸のため尻が痛い。
カンジキがひっかかったり、リュックサックが重かったりするとよくすべらぬので、それらのものは皆とりのけて、身体一つにならなければならぬ。そして尻にゴザをしく。
それから殆ど雪線に平行になるまで体をウンとそらして、足を揚げる必要がある。こゝが普通のすべり台をすべる時と全く調子の異なる点である。
しかし、一度すべつて見給へ。服はめちゃゝゝゝによでれるが痛快である。一行中このスベリをやつたのは おれ独りなりき。
「よでれる」とは「よれる」の間違いか、そういう言い方があったのか。読みかたが間違っているというわけではないと思いますが…。「雪線」というのもそう言い方があったのか疑問を感じます。
また41ページのほうの「いつのまには」というのも「いつのまにか」の間違いか、そういう言い方もあったのかどちらでしょう。
それにしても、祖父がいないことを誰も気にすることなく寝てしまったというのは、今ではありえないことではないでしょうか。またはだしで寝るというというのも信じられない。しかし当時は寒いから靴下を履いて寝るという感覚がなかったのかもしれません。
一方 山小屋で眠れないことは大いに共感するところです。私は20年くらい前になりますか、父と中央アルプスを登った際 山小屋に泊まったのですが、100人くらい宿泊客がいて窮屈だし、大きないびきの人がいてうるさいし、トイレにも行きにくいしで、ホント辛い思いをしました。重いザックを担いでキャンプした方がましという思いを強くし、その後、避難小屋で泊ったことは数回あれど、小屋泊まりは1度もしていません。
#
by fujiwarataichi
| 2024-11-02 15:40
|
Comments(0)
2024年 10月 06日
「白馬岳へ」(21) 39~40ページ目 頂上・山小屋


山の絵はこのように蛇腹状になっていて、パノラマで見られるように。凝り性だなぁ…。
それを3枚の画像に分けて。それぞれ2枚の写真を繋げたものですので、つなぎ目が不自然になっています。

七月二十三日夕方 ーー 頂上で寒さにガタゝゝふるへ乍ら北、西、南に連なる大山脈の前に立つて、これを寫生。
右から左に 1. 北望 日本海 朝日岳 富士はこのあたり 猫又岳



七月二十三日夕方 ーー 頂上で寒さにガタゝゝふるへ乍ら北、西、南に連なる大山脈の前に立つて、これを寫生。
右から左に 1. 北望 日本海 朝日岳 富士はこのあたり 猫又岳

白馬頂上より西望 七月二十三日、夕方
右から左に 落日 ツルギ山 別山 立山
右から左に 落日 ツルギ山 別山 立山

白馬頂上より南望 七月二十三日、夕方
右から左に 白馬ヤリ 杓子岳
右から左に 白馬ヤリ 杓子岳
下段の文章
頂上の夕暮れ ----- 落日 ------ あの山ひばり (イワヒバリの間違いだろう) の鳴くのには、あまりに寂しくて閉口である。
ずっと東の方をみおろす ーー 漸く (ようやく) 晴れた大雪渓の裾からいろゝゝの色彩をもつた、いくつかの山々を重ねてついにトガクシの連峯を形ちづくるその上に、浅間、吾妻は、今朝,馬尻から仰いだ時と同じ偉容を雲表にあらはしてゐる。
小屋にはいつて夕食、強力* のたいた、半にえのあつい御飯、ジッとしておくと椀の底に分解沈澱して、みるからにうまくなさそうな山の味噌汁 ---- これも熱い。こんな所では、うまい、まづいを超越して、たゞ熱いといふ事だけが眞のご馳走なのである。
高橋君は「さあお出しなすつて、ゝゝ」と自分は食べずに、まず大車輪でお給仕の役をつとめる。
小屋は入り口が二つあつて、北の方 頂上から来た路と、南、便所へ通ずる路がこの小屋を貫いて、そこに二つの入口が出来てゐるわけである。その路となつてゐる小屋のまん中、三ヶ所で木炭をたいて小屋をあたゝめる。路の両側は、わづか二寸か三寸位の高さに床板とも稍 (称) すべきうすい板をしき、その上がゴザで、人が寝られるやうになつてゐる。
ムシロは連日の雨でジメゝゝ。多数の登山者がせまいこの小屋一杯にあふれ、その上、うす暗いときてゐるので不ユ快なることこの上なし。人は四五十人は充分とまってゐる。こゝで登山者の氏名。年齢、職業、族籍** 等、帳面に記入するやうになつてゐる。これは四ツ谷高山旅館で一度やつた事のある吉田さんに一任して書いて貰ふ。今日、雨でぬれた、衣類クツ下等を眼の前の火の上につるしてあるのも実にいやなものだ。
食事を終へて谷本さんと小屋のうしろの尾根に登る。一面にこゝも花が咲いてゐる。こゝでは下のお花畑ではみられなかつたツガザクラがうすい卵色のツボミをつけてゐる。西のはてから吹きまくつてくる風はとても寒い。じっとして居られぬ。冬シャツ一枚と夏シャツ二枚、その上に夏服をきてゐるのだけど、頂上四十三度 (華氏) (摂氏約6度) の寒気にはたへるべくもない。こゝでスーゝゝ、水鼻をたらし始めたので、すぐ下りてしまう。
そして今度は私ひとり、例の赤ゲットをかぶって再びスケッチのため登る。こんどはズッと高い、よく見はらしのきく所まで、ゴツゴツの石ころ路を下駄ばきで登る。
そこに案内人が手拭を頬かぶりして一人やってきた。そしてはるかに指さし乍ら山々の名を説明してくれる。私はスケッチし乍ら、それをきいて痛快ゝゝと無我夢中に叫ぶ。
けれど寒さは前より募ってきた。鉛筆をもつ手がどうかすると、しつかり握れずに落としてしまひさうになる。それに手が振るへて思ふや (“思ふやう” の間違い?) にかけぬ。丁度急行列車にのって字を書いてゐるやうなものだ。
岩ヒバリが啼き、ハイマツの影に夕闇が迫り、山はしづかに暮れてゆく。神経衰弱の一郎 (会社の同僚か?) をこんなところへ立たせたら、一体どんなことになつてしまうだらう?
こゝに立つ時、人はすべてのものゝ上に超越してしまう。これはたしかだ。一度び(ひとたび) のぼってみたことのある人間なら必ず超越といふことだけには、たしかにそうだといつて、うなづいてくれるに違ひない。
人の心はあらゆるものゝ上に超越して、大なる山岳の神秘なリズムの中に抱かれ、そこに「神」といひたいやうなものをみることが出来る。私は哲学者ではないからこんなムヅカシイ心持はうるさくて (わずらわしくて) 書けぬ。とにかく夕暮れの遠空に輝やく星のやうに、私の心はこの時みがき上げられた。それだけは実に有難い気がした。
海抜九千六百七十九尺 (2932メートル) の頂上はすぐ眼の前にある。ハイ松を着た、ごくなだらかな傾斜、吾々の小屋からこの頂上まで石ころの道で五六丁 (600m前後)。信州に面した方は越中に面した方と反対に懸崖絶壁をなしてゐる。脚下を走る北俣澤は南股と合して松川となり、姫川に注いで日本海に流れ入るのである。北望すれば、はるか鼠色の日本海と、そこに流れをよこたへてゐるアルプスの魔境黒部川のほの白き一すぢ。神秘の色をとかして暮色の天に連なる。西、眼前の山は、海抜二八〇〇米突の旭岳、雪を一面にかぶつてゐる。黒部のあたりでこの山に中断されタ日本海は、未だ少しの明るみを見せて、この山の左手にいぶし銀の板をのべる。そして猫又山でかくされんとする海の近くに、夜ははるかに越中富山の灯がまたゝくといふ。
猫又の南に連なるはかの有名な立山連峯である。右に突き立ったのがツルギ、中央が別山、左端が立山、------ いずれも青味を帯びた遠山特有の渋い肌へに雪は象嵌*** の如くかゞやく -----
* 強力・剛力 (ごうりき) とは、歩荷や登山案内を生業とする日本古来の運送業者のこと。山小屋の飯炊きなど 雑用をすることもあったようです。
ここに書かれている強力は、登山を案内してくれた高橋君とは別の人物なのでしょう。
** 族籍 (ぞくせき) とは、旧制度で戸籍に記載された 華族・士族・平民などの身分。山小屋でそんなことを書かなければいけなかったとは驚きです。登山者が華族、士族でも山小屋ではたいした特別扱いは出来なかったと思いますが、寝場所や食事、あるいは言葉遣いで計らいがされたのでしょうか。ーうちはかつて武士だったとのことですので、祖父は「親の代までは武士だった」くらいは言ったかもしれません。
*** 象嵌 (ぞうがん) とはひとつの素材に異質の素材を嵌め込む工芸技法。 金工象嵌・木工象嵌・陶象嵌 等がある とのこと。-それはともかく、その前の「渋い肌へに」が分かりません。
山小屋の様子が書かれていて興味深いのですが、小屋の作りについての説明はわかりにくいのが残念です。
小屋の食事時、登山案内役の高橋君が給仕をしながら言った「さあお出しなすって」は「おいでなすって」の間違いではないかと思っていましたが、客 (祖父ら) に対して「どうぞこちらへ」と言ったのではなく、小屋の人に対して「お客さんに食事を出してください」という意味なのかもしれません。
標高3000メートルの山頂に立って哲学的な思考が頭を巡り「心が磨かれた」と感じたことも興味深い文章です (決してうまい文章ではありませんが)。祖父二十代半ば。相当 強烈な体験だったことでしょう。このような本を自作することをに駆り立てた大きな要素だったのではないでしょうか。

さて次ページは山頂での感慨の続き、そして翌朝 嵐のため山小屋で足止めを食らう様子、そして下山の様子と続きます。ただし山小屋で足止めを食らう様子の前に、下山時 大雪渓を下りる様子が先に書かれています。
#
by fujiwarataichi
| 2024-10-06 10:33
|
Comments(0)
2024年 08月 31日
「白馬岳へ」(20) 37~38ページ目 お花畑
“必ず来週” がひと月後になってしまいました。今日は長く恐れていたノロノロ台風が大阪堺ではただの雨で助かったという日です。
*37~38ページ目


上部の絵 そこに添えられた文章
こゝに立つ時,人はまづ、さみしいさみしい鳥の声に心を泣かされるであらう!!
何といふ鳥か知らぬ。ハイ松の中にないてゐる。
イワヒバリ、ホシガラスではないでしょうから ウソ (スズメ目アトリ科ウソ属) でしょうか。フィーフィーと寂しげに鳴きます。
小屋より 白馬山頂を望む
二十三日午后七時、寒さに手はふるえつゝ描く。
左端に似たアングルの写真が貼付。昭和時代、頂上の白馬山荘
裏面を見ると絵葉書でした。昭和44年、娘さん (私の父の姉・皆故人) に届いたもの。
*37ページ目

下の右の写真 白馬のお花畑
午後二時四十分 -- お花畑着
しづに*、なつかしいところであった。
一面のシナノキンバイ。ハイ松の波。なだらかな小山の起伏。そこにお花畑の壮観が展開せられるのである ---- いま、こゝにたゝずむで (たたずんで) 誰か、涙ぐましい感慨をおぼえぬものがあらう。
風強く處ゝ大盤石が或ひは孤立し、或ひは城壁の如く相重って、その岩根を、さゝやかな冷たい流れが走ってゐる。
みんなつめたい、雪解の水である。白馬は頂上よりフモトに至る間、どこへ迷ひこんでも水だけには、不便を感じない所である。それに登ってゐる間は、うすら寒いので、水筒なんかもって歩くだけ重たいから損である。
ハイ松の中から雷鳥二羽とびたつ。谷本さんが叫んでそれをしらせてくれる。そして今度は雷鳥に「雷丈夫だよ**、こっちおいで…」
*「しづに (しずに)」とは「静かで」という意味で使っていると思いますが、調べてみますと「しず (しづ) (静)」は「名詞の上に付いて、静かな、落ち着いている、静まっているなどの意を表す」とあります。少なくとも正しい用法ではなさそうです。
**ライチョウだけに「らいじょうぶ」というダジャレ?
下の小さな写真に 谷本さん 太一
お花畑の岩かげに風をよけて花をスケッチしてゐる太一
*38ページ目

百花みだれ咲くお花畑。
こゝには、西洋くさいウルップ草、いわかゞみ、みやまうすゆきそう、つがざくら、よつでしをがま (ヨツバシオガマの間違い)、はくさんぶうろ (ハクサンフウロ)、みやましをがま… 等、外に名もしらぬ花が咲き匂ってゐる。
こゝにしばらく休憩 ーー 名残をつげて* 一時間ばかり登ると、山頂の小屋があり、其の北に頂がみえる。我々は下の方の懸設小屋に泊まることにして、三時三十分にそこに安着。
今朝五時二十分、四ツ谷高山館を発して、実に十時間を要してゐる。脚の早い人なら七時間、おそい人なら十二時間もあれば大丈夫だといふ。
歩時計は三萬弐千四百五十八歩といふ数をしめ志して (?) ゐた。高度計は五千八百呎 (フィ-ト) を指したきり、上りも下がりもしない。気壓 (気温) の関係であらう?
雨また一切り ---- 寒気やうやく、おごそかに身にせまる。小屋の赤ゲットにくるまつて、三ケ所でたく火のご馳走、下界九十度の暑さをこんな所で思ひ出すと不思議でならぬ。
瞑想 ---- たどりこし十時間のみちを心に描くなつかしさよ。
*「名残をつげる」という言い回しはあるでしょうか?
「西洋くさいウルップ草」確かに。園芸種っぽさがありますね。
ところで山小屋に泊まるのだろうと思っていましたが、山頂の小屋の下にある「懸設小屋」に泊まったとのこと。「懸設」は「仮設」でしょうか。崖などの高低差が大きい土地に作る「懸造り (かけづくり)」という建築方法があるようですが、それのことではないと思うのですが…。今でいう避難小屋のようなものではないかと思いますが、食べ物は小屋で購入するのでしょうか。
左の写真 海抜九千六百七十九尺の白馬絶頂
次回は「頂上の夕暮れ」です。どうぞお楽しみに。
#
by fujiwarataichi
| 2024-08-31 14:45
|
Comments(0)

