2024年 08月 31日
「白馬岳へ」(20) 37~38ページ目 お花畑
“必ず来週” がひと月後になってしまいました。今日は長く恐れていたノロノロ台風が大阪堺ではただの雨で助かったという日です。
*37~38ページ目
上部の絵 そこに添えられた文章
こゝに立つ時,人はまづ、さみしいさみしい鳥の声に心を泣かされるであらう!!
何といふ鳥か知らぬ。ハイ松の中にないてゐる。
イワヒバリ、ホシガラスではないでしょうから ウソ (スズメ目アトリ科ウソ属) でしょうか。フィーフィーと寂しげに鳴きます。
小屋より 白馬山頂を望む
二十三日午后七時、寒さに手はふるえつゝ描く。
左端に似たアングルの写真が貼付。昭和時代、頂上の白馬山荘
裏面を見ると絵葉書でした。昭和44年、娘さん (私の父の姉・皆故人) に届いたもの。
*37ページ目
下の右の写真 白馬のお花畑
午後二時四十分 -- お花畑着
しづに*、なつかしいところであった。
一面のシナノキンバイ。ハイ松の波。なだらかな小山の起伏。そこにお花畑の壮観が展開せられるのである ---- いま、こゝにたゝずむで (たたずんで) 誰か、涙ぐましい感慨をおぼえぬものがあらう。
風強く處ゝ大盤石が或ひは孤立し、或ひは城壁の如く相重って、その岩根を、さゝやかな冷たい流れが走ってゐる。
みんなつめたい、雪解の水である。白馬は頂上よりフモトに至る間、どこへ迷ひこんでも水だけには、不便を感じない所である。それに登ってゐる間は、うすら寒いので、水筒なんかもって歩くだけ重たいから損である。
ハイ松の中から雷鳥二羽とびたつ。谷本さんが叫んでそれをしらせてくれる。そして今度は雷鳥に「雷丈夫だよ**、こっちおいで…」
*「しづに (しずに)」とは「静かで」という意味で使っていると思いますが、調べてみますと「しず (しづ) (静)」は「名詞の上に付いて、静かな、落ち着いている、静まっているなどの意を表す」とあります。少なくとも正しい用法ではなさそうです。
**ライチョウだけに「らいじょうぶ」というダジャレ?
下の小さな写真に 谷本さん 太一
お花畑の岩かげに風をよけて花をスケッチしてゐる太一
*38ページ目
百花みだれ咲くお花畑。
こゝには、西洋くさいウルップ草、いわかゞみ、みやまうすゆきそう、つがざくら、よつでしをがま (ヨツバシオガマの間違い)、はくさんぶうろ (ハクサンフウロ)、みやましをがま… 等、外に名もしらぬ花が咲き匂ってゐる。
こゝにしばらく休憩 ーー 名残をつげて* 一時間ばかり登ると、山頂の小屋があり、其の北に頂がみえる。我々は下の方の懸設小屋に泊まることにして、三時三十分にそこに安着。
今朝五時二十分、四ツ谷高山館を発して、実に十時間を要してゐる。脚の早い人なら七時間、おそい人なら十二時間もあれば大丈夫だといふ。
歩時計は三萬弐千四百五十八歩といふ数をしめ志して (?) ゐた。高度計は五千八百呎 (フィ-ト) を指したきり、上りも下がりもしない。気壓 (気温) の関係であらう?
雨また一切り ---- 寒気やうやく、おごそかに身にせまる。小屋の赤ゲットにくるまつて、三ケ所でたく火のご馳走、下界九十度の暑さをこんな所で思ひ出すと不思議でならぬ。
瞑想 ---- たどりこし十時間のみちを心に描くなつかしさよ。
*「名残をつげる」という言い回しはあるでしょうか?
「西洋くさいウルップ草」確かに。園芸種っぽさがありますね。
ところで山小屋に泊まるのだろうと思っていましたが、山頂の小屋の下にある「懸設小屋」に泊まったとのこと。「懸設」は「仮設」でしょうか。崖などの高低差が大きい土地に作る「懸造り (かけづくり)」という建築方法があるようですが、それのことではないと思うのですが…。今でいう避難小屋のようなものではないかと思いますが、食べ物は小屋で購入するのでしょうか。
左の写真 海抜九千六百七十九尺の白馬絶頂
次回は「頂上の夕暮れ」です。どうぞお楽しみに。
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by fujiwarataichi
| 2024-08-31 14:45
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2024年 07月 28日
「白馬岳へ」(19) 35~36ページ目 白馬頂上からのパノラマ
長く空いてしまいました…。貧乏暇なし…。
久しぶりに本を開いてみると 文章の少ないページ。早くやってしまえばよかった。
上の写真の右側 (35ページ)
写真の上にも山などの名前が記されており 朝日岳。
奥に薄く写っているのは右から トヤマ、猫又山
上の写真の左側 (36ページ)
南望 写真の上、左側の右 ヤリ岳、左端 杓子岳。
奥に薄く写っているのは右から ツルギ、別山、立山 と書かれています。下に 大残雪。
35ページ目の下の写真
寫眞にも、絵にも、口にも 筆にもあらはせるものではない。
36ページ目の下の写真
次回は花畑より。必ず来週にやろうと決意!
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by fujiwarataichi
| 2024-07-28 13:21
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2024年 06月 08日
「白馬岳へ」(18) 33~34ページ目 小雪渓横断
なんと5月下旬 新型コロナにかかってしまいました。風邪をひいたと思い、念のため病院で検査してもらったのですが、コロナだと言われ、驚きました。とはいえ、二日間 熱が出た後 収まり、その後は鼻風邪のような症状。そのうち回復するだろうと思いきや、体がだるく疲れやすい状態、鼻が利かず、味覚の障害が今も続いています。来週は山に行けるだろうと思いながら3週目。ひょっとすると数か月もこういう状態が続くのかもと不安を感じています。
※33ページ目
上の写真のコメント
一番おそろしかった小雪渓。寫眞を上に向けてとるので 傾斜の急角度はわからぬ。しかし、この雪の階段だけでも物凄い!! 下の絵のコメント
大雪渓をのぼりつめ ----- 午後一時二十分、ネブカビラ (ビラは傾斜地) 着。
こゝには雪はないのでカンジキをはづす。標高七千九百二十尺 (2400メートル)。
きくもなつかしいお花畑の一部分である。杓子岳、槍ヶ岳へ通ずる岐れ道。
ネブカビラ、少しはなれてネブカタイラ (タイラは平地) がある。
細い雪の下をくゞる流れが澤山あって、その間に花が咲き乱れてゐる。
黄色い花のシナノキンバイ。ミヤマキンポウゲ。紫色のクルマユリ。
白いハクサンイチゲ。それから葱に似た植物が多いのでこの辺を葱平といふのである。
一時三十分にこゝをたつ。一行大弱り、大雪渓でさんゞゝくたびれて、足があがらぬといふ -----
こゝが大雪渓から見あげたネブカビラである。午後一時〇五分、大雷雨のあとでスケッチ。
瀧のやうに流れてゐる急傾斜は小雪渓。こゝを、カギの手形に横断するのである。
案内人がクワのやうなもので雪の上に足型をほってくれる---- その上をたどるのである。
登山案内書に曰く。『登山は細心にして大膽 (大胆)、勇猛にして然も沈着なる態度を必要とする』
と ------- しかし、まあ、ためしに、こゝを一度わたって見給へ!!
命のおしい人は - 自殺者でない限り大抵は、ふるへ上って、顔色がサットかわる -----
※34ページ目
今回初めて夜 デスクの上で本の写真を撮ったのですが、電卓が写っていました…
小雪渓横断の図
午後二時 ----- 小雪渓を横断!! 再びカンジキをつけて武装。今まで中の最も危険な所。
約五十六度の急傾斜をもって雪渓は瀧の如く流れ、その下はとのぞくと、ムクゝゝと雲が湧き起こって、
それをみるだけでも目まひのタネである。一度び (ひとたび) 足をすべらすや、何十丈としれぬ雲の底にころけてあとは、サッパリわからなくなる。
上を仰ぐと雪渓は自分をのせて、そのまゝ奈落の底におちこんでしまいさう。
下を見ると下は下で雲がムクゝゝとして足がフラゝゝしてこれもいけない。
だから、何もみないことだ。たゞ金剛杖をたよりに、足型をふみしめて人の後について行けばいゝ。
----- 実に一行の心膽 (心胆) を寒からしめた難所である。四つ這いになる人。
すわったまゝ、後にも先にも行けぬ人、ナムアミダブツをとなへて佛の御加護でわたらうとする人 -----
しかし二時二十分には、たしかに、一行つゝがなく、こゝを、横断した。
水が雪よりも白く走ってゐる小さい流れ。カンジキをはづず。傾斜がひどいので、ドロの上はすべる。
ツガザクラの繁った上に足をふみしめて一歩ゝゝとあへぎのぼる。こゝに、白山いちげ、白山ふうろ等。
キリの中にふるえてゐる ----- とさみしさにとらへられる。
イラストが面白い。雪がつもった急な斜面のトラバース道の怖さがコミカルに描かれていますが、それも皆 無事に帰って来られたからこそですね。
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by fujiwarataichi
| 2024-06-08 01:54
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2024年 05月 02日
「白馬岳へ」(17) 31~32ページ目 高山植物について
仕事が急に忙しくなり (ヤフーショッピングめ…)、久しぶりの投稿となりました。早く終わらせたいものです。
高山植物について書かれています。この本の後半は押し花 (祖父が作成したものとともに購入したと思われるもの) や、植物の写生のページが続くのですが、なぜか植物のアップの写真はありません。白黒で取っても仕方ない、オレはプロの絵描きだということでしょうか。
高山植物のうちでは、何といつても、エンレイ草にキヌガサ草がその品位に於いて、又、その花の色彩に於いて、傑作の部に属する。
シナノキンバイや、ミヤマキンポウゲはどこかに、解脱しきれない俗物の匂があるからいやだ。 天界の花としては、あの花の黄色が余りにあくどすぎる。もう少し花の黄色にホワイトをまぜて、そして、ほのかな黎明の色をもたせてやりたい。
そこへ行くと、イワカガミ、ミヤマウスユキ草、ツガザクラ、ハクサンイチゲ等は、まことに、かあいゝものだ。
小さな写真に添えられている言葉 = お花畑にて、急斜面は雪渓
頂上の西側は風にふきさらされて雪はない。今年は七月の始めまで雪が降ってゐたといふ
そして九月にはもう頂上から麓まで又雪で荒れるのである。
この間たった二ヶ月間…
高山植物はこのたった二ヶ月間の春を忘れずに一齋に咲き出づるのである。
尊い生命の力!!
よくこの冷たいゝゝ雪を割って咲き出づるものだ!!
谷本さんがしめやかに云ふ
『涙なしにこれらの花をみることは出来ない…』
きく所によると、去年の官報によって非常にやかましくなり、たとへ一葉であらうと、挘って (むしって) もってかへるのを見つけられたら、すぐ罰せられるのだといふ。そして、それは単に高山植物のみならず山の石ころ一つでも、やかましいのだと案内人は云ってゐた。
※下のほうの写真のアップ 群落を作っているのはコバイケイソウ?
※32ページ目
上の写真に添えられている言葉 = 登山者は山を愛する念を失ってはならぬ
下の絵に添えられている言葉 = 吉田氏 小屋の赤ゲットをきて吉田画伯スケッチの図
二十三日、午後五時半 (夕飯前)
小屋の南。 巨巌の大自然物を利用して、そのかげに便所を掘ってある。
はいらなかったから中の様子はしらない。
夕方 ------ 吉田さんは、そこへ通ずる道ばたに三脚をすえて油で、四ツ谷方面から大雪渓へかけての景色をスケッチしてゐた。
小屋の下駄をはき、赤ゲットにくるまってる様子はまさに天下の偉観である ----- しかし、この寒さはどうだ。一時もぢっとしてゐられないぢやないか!!
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by fujiwarataichi
| 2024-05-02 22:46
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2024年 03月 09日
「白馬岳へ」(16) 29~30ページ目 大雪渓 (4) 氷河擦痕か問題
※29ページ
大雪渓が氷河の痕跡かという 当時の論争について書かれたページ。
白馬の雪渓には一部の学者が氷河の痕跡と認むる幾多の資料がある。 その二、三をあげると、A. 左右側面の岩面がルンドヘッカー (瘤状岩) を成し、B. 且つ擦痕を有し、C. 擦痕である漂石も多く、D. カールと認むべき絶壁もあるのであるが、日本アルプス中に氷河があったかどうかは学界の大問題として未だ明快な解決が下されてゐない。 島々から梓川の峡谷に沿うて野麦街道を十数町進んだ処にも擦痕がある花崗岩がある。この岩は長さ十二尺余 (3.6メートル以上)、幅六十七尺 (67メートル) でこれは大正二年十月… ドイツ、ハイデルベルヒ (ハイデルベルク) 大学地理学教授ヘツトナー氏が氷河の遺物である漂石として発見し発表したもの。山崎博士はこれに HOTTONOR STEIN と命名し、国立公園の主唱者田中博士や小川博士は此の附近を氷河公園と稍 (称) すべく、此の地方の氷河の延長は信州波多村まで及ぶと論じてゐるが、之には元より反対意見もある。存否の議論はさておき、兎も角 (ともかく)、梓川及び白馬雪渓にある氷河の遺跡らしい擦痕、漂石とは登山者にとって非常に興味と教味を併せ与へる (中野茨城)
ヘットナーを WIKIPEDIAで調べてみると- アルフレート・ヘットナー (Alfred Hettner) はドイツの地理学者 (1859- 1941)。フンボルトによって確立された近代地理学を20世紀の近代科学の文脈に沿って編みなおしており、ハーツホーンとともに伝統的地理学の代表的な学者とされている。とありました。
そして- 世界中に調査旅行をおこない、1913年には日本を訪れ、長野県の上高地においてそれまで日本には存在しないと考えられていた氷河による擦痕を残していたとされる巨石を見つけ、当時の日本の地理学において一大論争となった、いわゆる「低位置氷河説」のきっかけを作った。このきっかけの石はヘットナー石と呼ばれている。とありました。 祖父が記した HOTTNOR は綴りが間違っているようです。STEIN (シュタイン) は「石」のドイツ語です。 最後の「中野茨城」とは何でしょう…
※下の写真のアップ
白馬附近の方言
※上の写真のアップ
大雪渓に於ける氷河の擦痕岩
◎この岩は後日、調べたり、磨いたりする人があって専門的に擦痕でないことが明らかにされた事を、原田三夫先生、昭和44, 11, 7, 夜来訪の折、この寫眞をみて、吾に語って否定さる。
この大磐石は雪渓の途中、白馬尻から三つ目の棚北 又、雪渓の右側に位する一枚の大きな粘板岩で南面して傾斜してゐる。
◎印の一文は昭和44年に書き入れたもののようですが、原田三夫というかたが父のもとを訪ね、岩は擦痕ではない、氷河の痕跡ではないということを伝えに来たということでしょうか。
原田三夫を WIKIPEDIAで調べてみるとー 原田三夫 (はらだみつお) は日本の科学ジャーナリスト、教員 (1890- 1977)。科学雑誌や科学の啓蒙書の編集者・作家。「子供の科学」初代編集長。とありますが、このかたでしょうか。
祖父の妄想でないとすれば、このかたがなぜ祖父を知り、祖父のもとをわざわざ訪ねたのか、いきさつを知りたいものです。
暗雲ひくき大雪渓を登る
※30ページ
白馬附近の方言
ヒラ ---- 傾斜地
タヒラ ---- 平地
ヒシ ---- 岩の絶壁
ヘヅル ---- 斫 (匍ひ〇ふの意) ※「匍ひ」は「はらばい」だと思いますが、その後の漢字が読めない…
アハラ ---- 沮洳地 (そじょち, しょじょち) ※水はけが悪くじめじめしている場所
ソウレイ ---- 草の生へたるところ
オネ ---- 尾根, 畝, 山稜
ウト ---- 谿谷 (渓谷)
ソデ ---- 山稜の裏面
ナデ ---- 雪の崩落
ワバウ ---- 古い雪の上に積もった新雪の崩落
アハ ---- 山上の梢から雪泡一つ落つると、それが段々轉び落つるに従って雪こかしをする如く次第に大きくなりて、落下するその雪塊をいふのである。
次ページは高山植物などの記述など。楽しみにしていただけましたら幸いです。
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by fujiwarataichi
| 2024-03-09 13:19
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